マイ・オールタイム・ベスト・オブ・時間移動SF。本来一方通行のはずの時間を「痙攣的」に、つまり自分の人生の様々な時点を行ったり来たりしながら生きる主人公。ある時はドレスデン空爆を迎える戦争捕虜としての、またある時はトラルファマドール星の動物園の飼育動物としての、彼の数奇な人生が断片的/断続的に語られる。
一見トリッキーなだけの設定だが、ニヒリズムとヒューニズムの作家ヴォネガットは、そこに自身の戦争経験とー彼はドレスデン空襲を真只中で体験しているー創作生活で培った人生観を詰め込み、この世の理不尽に対するありったけの怒りと諦念を、本来なら相反する二つを「痙攣的」に我々に想起させる。
主人公は未来と過去と現在を行き来しながら経験するが、その全ては「決定的」であり改変できない。つまり彼は全てを知っていながら、それを知らない我々と同じように振る舞うことしかできない。その点で、彼は我々と変わらない。ただ知っていて、受け入れているだけなのだ。
そもそも、我々の行動・感情・思想など巨視的に見れば無に等しい。どんな蛮行も、強い願いも「So, it goes.」で片付く。どこかのマッドサイエンティストは「もっと四次元的に考えるんじゃ」と言った。我々にそれは受け入れられるだろうか?四次元的に考えれば、どんな愚者も英雄も、産まれてから死ぬまで決められた、そしてどれも代わり映えのしない、か細いレールの上を無意味に走らされているだけなのだ。
それは絶望だろうか?否、ヴォネガットはそれを前提にそれでも/だからこそ人間を肯定する。我々は確かに知らない。だからこそ叫ぶ、「我々は自由だ」と。いや、たとえ人生が決定付られていることを知ったとしても、それを受け入れずに自由意志を信じ続けることさえ、できるかもしれない。それ程人間は愚かだ。そしてだからこそ尊い。
トラルファマドール星人は言う。「自由意志というものが語られる世界は、地球だけだ」と。人間は四次元的には考えられない。だからこそ自由だ。
『スローターハウス5』を読む度、に主人公のラストシーンでの行動/メッセージのあと、世界はどうなるのだろう、と考える。人間は、変わるような気もするし、結局変わらないような気もする。どちらにしろ、多分人間は相変わらず自由だ。そして、それゆえに相変わらず愚かで、醜く、美しい。そしてヴォネガットは、そのことを一番理解しているSF作家だと思うのだ。


